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名刀の輝きを追う!【刀匠編】

 鎌倉幕府八代執権「北条時宗」は、二度にわたる“元寇(蒙古襲来)”を経験して、ある事に思い悩んでいた。と言うのも、敵との接近戦において、日本側にとっては重要な武器であるはずの「日本刀」が、重くて振り回し難く、直ぐ劣化して、折れたり曲がったりしたからだ。そこで「北条時宗」は刀匠「新藤五国光(しんとうご くにみつ)」に対し、「軽くて、折れず、曲がらず、よく切れる!」という新しい性能を持った「日本刀」を作るように命じた。こうしてこれ以降の「日本刀」作りの重要なコンセプトが決まったのだった。ところが、このコンセプトがなかなかの難関となる。何故なら、刀が折れないようにする為には、ある程度「日本刀」自体に“柔軟性”が必要なのだが、逆に曲がらず良く切れる事を追求すれば“硬さ”が必須となり、この相反する性能を一本の「日本刀」に持たせなければならないからだ。悩んだ末「新藤五国光」は、「日本刀」の原材料となる“玉鋼(たまはがね)”を炭素量の少ない柔らかいものと、炭素を多く含む硬いものに分け、柔らかいものは8回にわたる“折り返し鍛錬(熱した鋼を何度も折り返して叩きミルフィーユのような鋼の層を作る!)”の後、刀の芯となる心鉄(しんがね)とし、硬いものは15回の“折り返し鍛錬”を経て、刃の部分となる皮鉄(かわがね)として、この二種類の鋼を結着し鍛錬した。こうして、一見不可能と思える「折れず、曲がらず、よく切れる日本刀」の作刀に成功した。

 武士層の台頭によって「日本刀」作りは日本中に広まったが、特に優秀な刀匠や刀工集団を生み出した五大生産地を、“五箇伝”と言う。“五箇伝”は「相州伝(神奈川県)」、「美濃伝(岐阜県)」、「山城伝(京都府)」、「大和伝(奈良県)」、「備前伝(岡山県)」の事で、「伝」とは五大生産地において伝承された“作刀法”のことを指す。上述の刀匠「新藤五国光」は、五箇伝(ごかでん)の中でも「相州伝」の実質的な創始者と伝わる。彼はもともと、「山城伝」の中でも名刀工の誉れ高い「粟田口吉光(あわたぐちよしみつ)」の六男「粟田口国綱(あわたぐちくにつな)」の子息として「相州伝」を発展させ、これまた名工の名を欲しいままにした「五郎入道正宗」や「藤三郎行光」の師として活躍した。更に「国光」に薫陶を受けた「正宗」は、“正宗十哲”と呼ばれる優秀な弟子達を育て上げた。

 「天下三作(てんがさんさく)」とは、こうした名刀工達の中でも特に優れた“名刀”を作った三人の刀匠を指し、1719年に徳川幕府八代将軍「徳川吉宗」が「日本刀」の鑑定を一手に行う「本阿弥光忠」に命じて編纂させた、名物(めいぶつ、名刀の事)の一覧「享保名物帳」に「天下の三名工」として名を遺す。富士山「山城伝」の「粟田口吉光」は短刀作りの名手で、約40振が「享保名物帳」に記載されたとのこと。二人目「相州伝」の「五郎入道正宗」は卓越した技が当時の諸大名から最も好まれた刀匠で、大金で売買されたという記録が残る。三人目「越中の国」の「郷義弘(江義弘、ごうのよしひろ)」は、「正宗」の十人の弟子達“正宗十哲”の中でも最も優れていると謳われた刀匠で、現代にも残る国宝の「富田江」を作刀したが、27歳で夭折したため、多くの謎に包まれている。

文 国影 譲
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