TWO-ONE STYLE
TWO-ONEな暮らし TWO-ONE STYLE
トピックス 店舗検索 取扱商品のご紹介 イベント&サービス TWO-ONEな暮らし お問い合わせ
「パン」、その魅力的な存在感!

 先日、東京国立博物館で開かれていた特別展「ポンペイ」を見に行った親しい友人から“炭化したパンの化石”の話を聞いた。展示品の中でもひときわ異彩を放つこの「パン」は、西暦79年のベスビオ山噴火の火砕流によって、あっと言う間に地下6mに埋もれてしまった古代都市「ポンペイ」で発見されたという。今もなお発掘調査が続く「ポンペイ」は、2千年も前に滅んでしまった訳だが、東京ドーム13個分の広さに、1万人とも1万5千人とも伝わる人口を抱えて栄華を誇り、何とそこには38軒もの「パン屋」が有ったというから驚きである。

 更に驚くのは「パン屋」の社会的地位の高さだ。残された記録によると、ギリシャから“奴隷”として「ポンペイ」に連れて来られた男が、「パン屋」として身分が上がって行き、ついには“解放奴隷(奴隷から一般民衆となる!)”から上流階級にまでのし上がったらしい。これは正に「パン」という食品が、如何に民衆の生活と切っても切り離せない重要な“モノ”だったかを表す証左だろう。

 さて、そんな「パン」はいったいいつ頃から人類の歴史に登場したのだろうか?中東の国「ヨルダン」では、約1万4400年前の“化石化したパン”が発掘されている。もちろん、まだ人類が農耕や農業を始める前のことであり、材料となる小麦やライ麦も“野生種”を採取したものだったのだろう。それが、紀元前3000年から紀元前30年頃まで続いた“古代エジプト”になると、農耕によって栽培された小麦を原材料とする「パン」が盛んに作られるようになり、人々への給料や税金まで「パン」によって支払われたとの記録がある。発酵酵母やワイン酵母、乳酸菌などを使った「発酵パン」が生み出されたのも、この頃の「エジプト」だ。

 我が国に初めて「パン」が伝来したのは、西暦1543年に、種子島に漂着したポルトガル船により鉄砲がもたらされたのと同時であると伝わる。やはり宣教師が、その製造法と共に日本に持ち込んだのだが、「ワイン」は“キリストの血”、「パン」は“キリストの身体”というキリスト教の教えが「キリシタン禁教令」に抵触したため、「パン」の製造も禁止されるに至った。「パン」が再び日本で注目されたのは、1840年に起きた“アヘン戦争”で英国が清に圧勝したことがきっかけだった。幕府が頼った軍学者「江川太郎左衛門」が、米よりも「パン」の方が兵糧として優れているとして、自ら伊豆韮山の自宅の庭に“パン焼窯”を作り、1842年4月12日には日本人として初めて「パン」を焼いた。これを記念して今でも毎月12日は「パンの日」とされているのである。その後、1869年に銀座に日本最古のベーカリー「木村屋総本店」が出来、1874年に今でも大人気の「あんぱん」が売り出され、パンを食べるようやく日本でも“パン文化”が意識されるようになった。そして更に、太平洋戦争の終戦後にアメリカからの援助物資であった小麦粉で焼いた「パン」と脱脂粉乳が学校給食で出されるようになって子供達の食生活が変化し、やがて大人達も巻き込み、社会全体に広がっていったのだった。

 最後に、「ロシア」による「ウクライナ」侵略戦争は、世界有数の“小麦輸出国”2国を世界から奪ってしまった。どうか世界中の人々が、一日も早く安心して美味しい「パン」を頬張れる日が訪れますように。  

文 国影 譲
  このページの先頭へ  
   
ホームセンターナフコのサイトへ HOMEへ TWO-ONE STYLEトップへ TWO-ONE STYLEトップへ