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一期一会のある暮らし
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「市川團十郎」の悲劇と栄光(下)
(下)

  三代目「團十郎」を襲名した「市川升五郎」はその芸風は爽やかで、江戸っ子達に受けが良かった。「團十郎」から「海老蔵」に名を変えた二代目との共演も評判を呼び、特に「栄分身曽我(はなぶさふんじんそが)」という演目での二人の掛け合いは台詞本として出版され、江戸っ子達が競って真似をしたというから大した人気と言えよう。そんな三代目だったが、寛保元年(1741年)11月、二代目と共に大坂に上り「佐渡島長五郎座」に出演。その3日目に突然発病し単身江戸に帰ったが、翌年2月27日弱冠22歳で夭折した。その死を悲しんだ二代目は「梅散るや 三年飼うた きりぎりす」の句を手向けた。そして大名跡「市川團十郎」はその後、12年に亘って空席となる。四代目「團十郎」を継いだ「松本七蔵」は、江戸堺町の大茶屋「和泉屋勘十郎」の次男であったが、実は二代目「團十郎」の隠し子と言われていた。3歳で初代「松本幸四郎」の養子となり、9歳で「松本七蔵」の名で初舞台を踏んでいる。また「市川升五郎」が三代目「團十郎」となった舞台では「松本幸四郎」の名で共演していたのである。三代目が亡くなった後、彼は四代目「團十郎」の襲名を切望したが、なぜか二代目はなかなか首を縦に振らない。ようやく、二代目が四代目の襲名を認めた時、彼は既に44歳であった。

どうやら四代目は、神経質で喧嘩っ早い感情家だったらしい。それまでの豪放磊落な荒事を得意とする「團十郎」像とは趣を異にする。その為、従来の人気演目「助六」、「鳴神」、「暫」などを演じても評判は芳しくなかった。そこで四代目は“実悪(終始一貫、悪に徹する敵役)”に光明を求め、歌舞伎十八番の中でも「景清」、「蛇柳」、「釜髭」などといった、やや影の有る主人公像に迫った。この努力により初期の「團十郎」達とは違う奥行きのある名優と評判を取ったのだ。安永5年(1776年)、市村座「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」の千秋楽公演で、四代目は突然剃髪姿で舞台に現れ、五代目を実子「松本幸四郎」に譲り、完全に引退すると表明した。時に、四代目66歳。そして、まるで天命を悟っていたようにその2年後、68歳で没したのだった。

五代目「市川團十郎」は、四代目に似て細身で背が高く、鼻も高くて台詞回しに定評があった。しかし本人はと言うと、歌舞伎の主人公という“虚像”を演じることに疲れを感じるという繊細な神経の持ち主だったらしい。何と50歳の時、わずか13歳の息子に六代目「團十郎」を名乗らせ、自らは「蝦蔵(えびぞう)」と名乗った。先祖達の「海老」ではなく「蝦」を使った辺りが、自らを卑下する癖のあった五代目らしい。また、「東洲斎写楽」が描いた「蝦蔵」の大首絵は、晩年の五代目の特長をよく捉えていると評判だった。そんな五代目を再び悲劇が襲う。息子の六代目「市川團十郎」は弱冠20歳にして中村座の“座頭”と成るほどの逸材で、しかも華のある美男役者だったのだが、何と寛政11年(1799年)5月13日、風邪をこじらせて急逝してしまったのだ。奇しくも三代目と同じ22歳だった。仕方なく、五代目は孫の「海老蔵」に七代目を継がせることにした。この七代目こそ“波瀾万丈”の人だったのだが、その顛末は又の機会としたい。

文 国影 譲

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