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一期一会のある暮らし
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「市川團十郎」の悲劇と栄光(中)
(中)

 さて、「市川團十郎」の名で江戸庶民の喝采を得るようになった初代が、自らの“芸”を継ぐ息子の誕生を熱望したのは、ごく自然の事だったろう。ところが、歌舞伎“荒事(あらごと)”の完成に向けて精進する初代「團十郎」ではあったが、なかなか子宝に恵まれない。思い余って、「成田不動尊」に祈願したところ、初代二十九歳の折、元禄元年(1688年)10月11日に待望の長男が誕生した。幼名を「九蔵(くぞう)」と名付け、初代は世間に対してこの子を「成田不動尊」の生まれ変わりと吹聴した。この時から「成田山新勝寺」と「市川宗家」の間に深い“縁”が生まれ、やがて「市川宗家」の屋号が「成田屋」となったのだった。

 初代と二代目の共演も人気を呼んだが、特に「九蔵」は「成田不動尊」の生まれ変わりと称したため、元禄16年(1703年)4月に“江戸森田座”で上演した「(なりたさんふんじんふどう)」という演目で初代が胎蔵界の不動を、そして二代目が金剛界の不動となって現れるという趣向が人々に賞賛されたと伝わる。しかし、順調に見えた「市川宗家」に突然の悲劇が襲い掛かる。
 元禄17年(1704年)2月19日、“市村座”で「わたまし十二段」という演目に出ていた初代「市川團十郎」は、舞台上で役者「生島半六」に刺され絶命した。享年四十五歳であった。今日に至るまで、この遺恨の理由は定かでない。しかしその後、あまりにも偉大過ぎた初代に対する、他の役者たちの“嫉妬”が、弱冠十七歳の二代目への冷遇に繋がったのだった。そんな中、わずかに「生島新五郎」という江戸歌舞伎“和事(わごと)”の名人だけが二代目に肩入れしてくれた。「新五郎」は、弟子であった「生島半六」の犯行に大いに責任を感じていたらしい。しかしこの出会いが、“荒事”一辺倒だった二代目に、芸の幅を広げさせ、歌舞伎十八番の「助六」誕生に繋がるのだから何が幸いするか分からない。初代の血を受け継ぎ、初代に勝るとも劣らぬ大器であった二代目は、やがて「市川宗家」に大きな変革をもたらす。それが二代目「市川團十郎」の“襲名”だった。

 江戸歌舞伎の座元達は、「市川九蔵」という名を一から世に広めるのを躊躇した。時間が掛かるのはもちろんだが、江戸中に居る“團十郎贔屓(びいき)”連中が熱望しているのは、“歌舞伎の氏神”としての「團十郎」という名跡だったのだ。そこで、“襲名披露”という大興行を打ち、この後「市川宗家」の歴代当主は、「市川團十郎」を“襲名”するというビッグコンセプトを成立させたのである。
また、二代目は三十四歳の折、「大鷹賑曽我(おおたかにぎわいそが)」の「曾我五郎」役で大当たりを取り、享保6年正月から10月まで280日間、大入り興行を打ち続けた。これを受けて、江戸三座の座元が協議の上、二代目「市川團十郎」に“千両役者”の称号と給金を与え、以後毎年6月1ヵ月間は“夏休み”を与えることとした。「市川宗家」に決定的な隆盛をもたらした二代目ではあったが、実子に恵まれなかった。そこで初代「團十郎」の門弟だった「三升屋助十郎」の子を“芸養子”として迎え「市川升五郎」と名乗らせた。やがてこの「升五郎」が十五歳の折、享保20年(1735年)三代目「團十郎」を襲名したのだが・・。(つづく)

文 国影 譲

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