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一期一会のある暮らし
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“時空間旅行☆江戸へ”

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 “火事”と“喧嘩”は「江戸の華」などと言う言葉が残っているが、甚だ穏やかでない。しかし、この言葉には当時の人々の置かれた環境や状況が色濃く反映されていると言える。まず何より現代と異なる点は、“電気”というものが無いことだろう。“水道”は「神田上水」や「玉川上水」が既にあった。ガスは無かったが、竈(かまど)に薪があれば炊事には事欠かなかった。ただ、“電気”が無いということは、夜の“暗さ”に対する備えが、蝋燭(ろうそく)や行灯(あんどん)しかないことを意味している。これは将軍様であろうと一般庶民であろうと状況は全く同じで、皿に菜種油や鯨油を入れて灯芯を立てた行灯は、ちょっと蹴飛ばして倒しただけでいとも容易く燃え広がる。ましてコンクリートや石で出来た家ならともかく、すぐに火の回る木造家屋が、軒を連ねていた江戸時代に、向う3軒両隣を焼くような“火事”は日常茶飯事だったらしい。そこで江戸庶民の知恵としては「宵越しの銭は持たない!」となる。家財道具なども必要最小限であり、すぐに着のみ着のままで逃げ出せる算段が常にあった。どうせ長屋は借家であり、焼けてしまえば他を探すだけのこととなれば、いっそ気楽な貧乏暮らしと達観していたものと見える。ただこれが、超広域火災となると話はいささか異なる。明暦3年(1657年)に起きた「明暦の大火」は別名「振袖火事」として有名だ。この年の正月、同じ着物(振袖)に手を通した3人の娘が、相次いで病死したことからこの“不吉”な着物を焼き払おうと、本郷にあった本妙寺でこれに火を付けたところ、火の粉と共に舞い上がった振袖が本堂の屋根に落ち、たちまち本堂に燃え移った。それが新たに建設された市街地全域に燃え広がったのである。江戸城とて例外ではなく、本丸御殿と天守閣が全焼してしまった。大名・旗本屋敷も1200以上、また寺社350余りも焼失し、一般庶民の被害も甚大で、死者10万人以上という大惨事だったと記録されている。しかしこれを機に、幕府は火除地(ひよけち)の造成、大名屋敷や寺社の郊外への移転など都市計画の見直しを進めたのだった。

 “喧嘩”は、江戸庶民の鬱憤(うっぷん)のはけ口だったのだろう。特に士農工商の最上位に位置しながら全く生産性の無い「武士階級」と、経済的にも力をつけ、社会的影響力を持ち始めた「町人」との間の軋轢は、相当なものがあったようだ。「明暦の大火」から半年後の7月18日、口入れ稼業(大名屋敷へ奉公人などを斡旋する職)を営んでいた「幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべい)」が、旗本「水野十郎左衛門」の屋敷で斬殺されるという事件が起きた。
これは「水野」が「大小神祇組(だいしょうじんぎぐみ)」という“不良武士集団”の首領として江戸の盛り場で乱暴狼藉の限りを尽くしていた時、「町人」の自警団的存在である町奴(まちやっこ)の頭領「幡随院長兵衛」と“喧嘩”反目し合った結果であった。その時は“お構い無し”だった「水野」も、7年後とうとう幕府評定所に不行跡を咎められ、出頭の翌日に切腹となった。江戸の庶民たちは、七年越しの朗報に快哉(かいさい)を叫んだと記録に残っている。(つづく)

文 国影 譲

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