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“時空間旅行☆江戸へ”

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 一介の足軽から身を興し戦国時代を駆け抜けて、いよいよ天下統一が視野に入って来た「豊臣秀吉」にとって、「徳川家康」は極めて頼りになるNo.2であると同時にその“実力”や敵に回した時の“恐ろしさ”を充分感じさせる存在であったことは間違いない。だからこそ、一朝(いっちょう)事あらば「家康」の力を削ぐような施策を断行してやろうと熟考していたのだろう。天正十八年(1590年)小田原城を包囲し、「家康」に北条氏討伐を命じた「秀吉」は、その作戦の成功を確信するとすぐに関東平定後の“次の一手”を考えていたと言われる。それは、「家康」にとっても大きなターニングポイントとなる“関東移封(かんとういほう)”であった。もともと信濃・甲斐・駿河・遠江・三河という豊かな“東海地方”を拠点とした大名である「徳川家康」を、突然開発も進んでいない上総(かずさ)・下総(しもうさ)・上野(こうずけ)・武蔵・相模・伊豆といった異郷の新領地に移し、しかも本拠地を“小田原”ではなく、“江戸”に指定するというのだから「秀吉」にとっても、「家康」の反逆の可能性も考慮せざるを得ない正に大きな“賭け”だっただろう。なにしろ“移封”となれば、“家臣団”だけでなくその家族やまた産業の担い手である商人や職人に至るまで、さながら“民族大移動”の様相を呈することとなる。北条氏討伐で疲労の色も見える“大切な家臣”たちを、旧領地に一度も返す事無く“江戸”に向かわせた「家康」の胸中は察するに余りある。家臣の中には「秀吉」の嫌がらせに対抗すべしという“交戦論”も出て来ただろう。しかし「家康」にその当時「秀吉」と一戦を交えるという意思は無かったと言える。まだまだ「秀吉」の人気は高く、日本全国の大名たちも「秀吉」に忠誠を誓っていた。反旗を翻しても勝ち目は無いとすれば、目の前に広がる“関東平野”を如何に豊かで、しかも将来性のある土地に変えて行くかが、喫緊の課題となったのである。

 こうして、いよいよ“江戸”の大規模な開発が始まったと言いたいところだが残念ながら事はそう簡単には行かなかった。なぜならば、まだまだ「家康」の「秀吉」に対する不信感が拭いきれなかったことが挙げられる。折角“江戸”を開発しても、また「秀吉」によって“移封”されるのではないか。
そうなると貴重な財を投じて大規模開発をすることは、自らの経済力を弱めることに繋がる。そう考えた「家康」は、家臣からいくら関東随一の居城建設を勧められても首を縦に振らなかったと伝えられる。しかしそんな「家康」も、大勢の家臣団とその家族、さらに旧領地から「家康」に付き従ってきた商人や職人たちが住み暮らすようになって“爆発的”に人口が増えた“江戸”にとって、絶対必要な“飲料水”と
“塩”の調達という目的の為、“江戸開発”に手を付けざるを得なくなって行った。埋立地である“江戸”の中心地周辺は、普通に井戸を掘っても“塩水”しか出ない。そこで、井の頭池を水源とする“神田上水”を建設し、また“塩”の安定供給を確保しようと、東日本随一と言われた塩の生産地“行徳”と“江戸”を結ぶ“臨海運河”を建設することになったのである。(つづく)

文 国影 譲

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