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京都人の“美意識”を表す言葉としてよく使われる「はんなり」は、もともと「花なり」或いは「花あり」から転じたものとされている。ここで言う“花”とは、世阿弥が「風姿花伝」で著わした「秘すれば“花”なり」の“花”であり、そして歌舞伎や演劇の世界で、名優たちへの賞賛に使われる言葉「“花”がある!」の“花”でもあろう。「はんなり」はまた、別の説では「春なり」から生まれたとも言われるが、何れにせよ、“京の着倒れ”とも称される高い“美意識”を持った京都人にとって“外見的な美しさ”は言わずもがなであり、更に内面から溢れ出て来る“前向きなパワー”と“輝くような魅力”を的確に捉えたのが「はんなり」という表現なのだと思う。昨今、マスコミが“京都的なもの”を総て一緒くたにして「はんなり」を連発するのには閉口するが、京都に流れる“上質な時間”や、京都という稀有な歴史都市が持つ“落ち着いた快適さ”に身を置いて、その“美意識”を自ら体感すると不思議と見えてくるものがあることに気が付く。
現代という時代は、日本だけでなく世界中が“利益追求”や“効率優先”に目を奪われ、自らの“存在意義”や“存在価値”を見失っているように見える。また、常に拡大する事だけが“正義”だという「拡大一辺倒主義」の足元が崩れ去りそうになっていると感じる。消費低迷によって仕事量自体が減ってくると、あわてて“ワークシェアリング”などと称して“労働時間の細分化”によって雇用機会を守ろうとする。しかし実は、京都では何百年も前から“技術の専門化”による“ワークシェアリング”が普通のこととして行われてきているのである。例えば、美しい“舞い扇”ひとつ取ってみても、顧客がそれを手にするまでには「和紙を漉く」、「金箔を作る(しかも澄屋(ずみや)という延金師と箔屋(はくや)という箔打ち師の両者が必要なのだ!)」、「岩絵の具を調製する」、「筆を作る(琵琶湖に生える葦の中にしか生息しない鼠の毛で作る筆などというものも存在するらしい!)」、「絵を書く」、「扇の骨を作る」、「骨に紙を糊付けする」、「扇を販売する」などというようにそれぞれ独立した工程があり、個々に専門の職人や商人が存在する。 更にどこから前工程品を仕入れて、自ら手を加えた後、どこに売るかまで商流が確立していていわゆる“浮気”をしない。“販売効率”や“利益増大”だけを考えれば、1社で全てを内製した方が利益も上がるし、効率も良いという判断もあるだろう。しかし、各々専門の職人が“一子相伝”で何百年も受け継いできた“特別な技術”を守るという意識も強く、また職人も商人もお互いを尊敬し尊重し、生まれた利益を“商流に関わる皆”で分け合って“共存共栄”していくという深い信頼感で結ばれているのである。京都という所が“落ち着いた快適さ”を持っているのは、人を蹴落としてでも、利益を独り占めしようとするような文化が存在しないからだろう。
文 国影 譲
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