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「銀座」に希望の灯がともる時!

 私が「伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)」の作品を、実際に目の当たりにしたのは、2006年に東京国立博物館で開かれた「プライス・コレクション伊藤若冲と江戸絵画展」が初めてだった。しかし既に2000年には、京都国立博物館で「若冲、こんな絵描きが日本にいた」が開催され、アメリカの美術蒐集家「ジョー・D・プライス」氏による「伊藤若冲」コレクションの展示紹介が行われて、近年、歴史の中に埋没していた絵師「伊藤若冲」の再評価が始まっていたのである。
 「伊藤若冲」は、享保元年(1716年)に京都の“錦小路”にある「桝屋」という青物問屋の長男として生まれた。青物問屋とはその数3000軒とも言われる八百屋達に野菜等の生鮮食品を卸して販売させるという一大流通業であり、当時有力な“町衆”の一つだった。彼は23歳の時、父の死去に伴い家業を継ぐことになるのだが、どうも商いにはさっぱり興味を持てなかったようだ。と言うよりも、彼は社会的名声を求めず、一生涯妻も娶らず独身を貫き、およそ“現世に於ける享楽”とは無縁の人生を歩みながら、只々絵を描き続けたいという思いに突き動かされていたらしい。そして当然の流れであろうが宝暦5年(1755年)彼が40歳の時、3歳下の弟に家督を譲り、本格的に絵師としての道を歩み出した。

 43歳頃から代表作と成る「動植綵絵(どうしょくさいえ)」を描き始め、約10年の歳月を掛けて全30幅の大作を完成させる。これを常々懇意にしていた禅僧「大典顕常」の居る「相国寺」に寄進したのだが、そのあまりの出来の良さに、京都中で大評判に
なったと伝わる。何しろ西本願寺の管主が一目見たさに「相国寺」からこの作品群を一時借り受けたという記録も残っているのだ!こうして彼は京都画壇では「池大雅(いけのたいが)」を凌ぎ、若き天才「円山応挙(まるやまおうきょ)」に次ぐ人気絵師となった。ところが、そんな人気絶頂だった「伊藤若冲」が、まるまる2年間も“絵筆”を取らなかった時期があることが、最近の研究で明らかになった。いったいこの2年間、彼は何をしていたのだろうか。
 この時期の彼の活躍は、「京都錦小路青物市場記録」という古文書に見る事が出来る。実は彼が愛して止まない「錦市場」が、“商売敵”の青物問屋の“悪巧み”によって、奉行所から営業停止処分を受けてしまったのだ。“商売敵”から賄賂を受け取った奉行所は「若冲」に対して「金さえ払えばお前が町年寄をしている街だけは営業を認めてやろう!」と持ち掛けたが、彼はこれを
突っぱね、「錦市場」全体が存続出来るように奔走した。「若冲」は、いざと言う時は死罪覚悟で幕府評定所へ直訴すると思い定めていたという。やがてこの動きが大勢の町人や農民達の存続嘆願へと発展し、ついに「錦市場」の存続が決まったのだった。

 「若冲」の晩年も、決して平穏無事ではなかった。と言うのも1788年に京都を襲った“天明の大火”によって自宅を焼失し、全ての財産を失って窮乏生活を余儀なくされたからだ。しかし元々清貧を好む性格は晩年にも変わらず、世俗を離れて“石峰寺”の門前に隠棲し、米と絵を交換するという意味の「斗米庵(とべいあん)」と号して、85歳で病没するまで数多くの作品を描き上げたのだった。

文 国影 譲

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