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「銀座」に希望の灯がともる時!

 「銀座」の商人達が自主的な組織を立ち上げたのは、何と大正8年(1919年)の事だと言うから、その歴史は既に100年を超えている。当初は組織の名称を「京橋」の“京”と「新橋」の“新”を取って「京新聯合会」と称していた。 組織立ち上げの目的は、行政による“無味乾燥”な“街づくり”に対抗するためだったらしい。この年、日本で初めての“都市計画法”が施行され、「銀座」の拡幅工事が計画された。道幅を広げる為に“歴史ある”ガス灯を撤去し、街路樹である“柳”を引き抜いて“ポプラ”を植える。東京市長である「後藤新平」と「京新聯合会」の闘いは、残念ながら「後藤」側の勝利に終わり、一時的にせよ「銀座」は“情緒”ある風情を失ってしまったと伝わる。しかしここで、帝都に一大事件が勃発した!“関東大震災”である。大正12年(1923年)9月1日午前11時58分、相模湾北部を震源とする、M7.9の巨大地震が「東京」を直撃した。「銀座」も例外とはならず、完全にその姿を消し、灰燼に帰してしまった。

 この「銀座」未曽有の危機に、敢然と立ちあがったのが「京新聯合会」に所属する商人達だった。作家「水上滝太郎」の短編「銀座復興」にも、商人達の意気込みが詳しく書かれているが、被災の2ヵ月後の11月1日には居並ぶ“仮店舗” で“復興大売り出し”が催されたというから驚く。そんな「京新聯合会」も昭和5年には「銀座通連合会(ぎんざどおりれんごうかい)」と名称を変え、柳並木の再生に尽力し、昭和7年には東京朝日新聞の寄贈により銀座の柳が復活した。  

 さて、第二次世界大戦で再び灰燼に帰した「銀座」の復興を目指す「銀座通連合会」が、“銀座再建”の力と頼んだのが「大倉喜七郎」率いる大倉土木組(現大成建設)だった。終戦直後には、両者の間でバラック建築のマニュアルが立案され、仮店舗の段階で“銀座の街並み”の基本デザインが出来ていたのが凄い!
 ただ米国の新聞は東京特派員電で、物資不足の日本が、そんなに早くは立ち直れないだろうとし、引き受けた「大倉組」も大変な苦労を背負ったものだと伝えた。 「大倉喜七郎」は、自ら“飯場”(はんば、大規模な建設現場で作業員用の給食や宿泊を提供する施設)で出す食事用の“闇米”(やみごめ)を集める為にトラックで農家を回ったり、建設資材の買い付けに奔走した。しかし、ここで大きな問題にぶつかった。資金不足である。直接買い付けで物資を調達するには、何としても大量の“現金”が必要なのだ。思い余った「喜七郎」氏は直談判をすべく、単身“大蔵省”に乗り込んだ。やがて現れた係官は、「喜七郎」の“銀座復興”に賭ける意気込みに気押されたのか、“銀座復興”に興味を示したのか「大倉組」に“特別融資枠”を認めるように話をしておくからと告げた。狂喜した「喜七郎」が周囲の人々に、あの方はどなたですかと聞くと、皆はこう言ったという。「君は知らないのか。あの人が今売り出し中の主計局長「福田赳夫」さんだよ。」その後、第67代内閣総理大臣となる「福田赳夫」氏の、若かりし日のことだった。

 私は「銀座」が好きだ。食事も良し、“歌舞伎”も良し、買い物するにも他とは違う上質な雰囲気が漂う。それは“銀座復興”に賭けた人々の“魂”の輝きだ。
文 国影 譲

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