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「銀座」に希望の灯がともる時!

 バロン・オークラと呼ばれた“その男”は、首都東京を襲った“大空襲”にも焼け残った“銀座和光”から“松屋デパート”の方を見やりながら、「さて、何から手を付けようか?」と呟いた。“その男”の名は「大倉喜七郎」。一代で戦前日本の十五大財閥の一つ、「大倉組」を築き上げた「大倉喜八郎」翁の長男であり、「大倉組」の二代目である。「大倉組」は、帝国ホテル、ホテル・オークラ、大倉土木組(現、大成建設)、日清豆粕製造(現、日清オイリオ)、太陽生命保険 (現、T&Dフィナンシャルグループ)、東海パルプ、大日本麦酒(戦後アサヒ ビールとサッポロビールに分割)等、最盛期には、実に220社以上の企業群を擁する一大コンツェルンであった。只、財閥としての力が目立つが故に、GHQ (連合国軍最高司令官総司令部)が進める“財閥解体”の標的となることを意識せざるを得ないと「喜七郎」氏は考えた。GHQによって、完膚なきまでに解体される前に、何とか「大倉組の魂」を世に残せないか。「喜七郎」氏自身も公職追放の対象と成っており、表立って活動することは難しい。そこで考え出された“奇策”が「大倉土木組」の“社員持ち株制移行”による“上場廃止”だった。 上場さえ廃止すれば、株式が散逸することはない。社員が、株主として主体的に 経営する企業に対しては、GHQと言えども文句の付けようが無いはずなのだ。 更に、企業イメージを一新する為に“企業名”の変更にも着手した。1928年に亡くなった「大倉喜八郎」翁の戒名「大成院殿礼本超邁鶴翁大居士」から「大成」を取り、又英語の“Construction”を日本で初めて「建設」と翻訳して、1946年、ついに「大倉組の魂」を継ぐ新生「大成建設株式会社」が誕生したのだった。

 1944年(昭和19年)7月、アメリカ軍はマリアナ諸島に位置する“サイパン島”を占領し、そこに日本本土を直接爆撃出来る“大型爆撃機B29”の基地を 建設。そして武蔵野にあった「中島飛行機武蔵製作所」を爆撃の標的に選定した。「中島飛行機」は、日本海軍の主力戦闘機“零戦”や日本陸軍の主力戦闘機“隼(はやぶさ)”のエンジンを製造する大軍需工場だったのだ。1945年1月27日土曜日早朝、「中島飛行機」を爆撃しようと“サイパン島”を飛び立った“B29”数十機は、折りからの悪天候のため“武蔵野”への爆撃を断念し、帰還することになった。しかし問題は、機体に工場爆撃用の、大きな“通常爆弾”を装着していることだった。基地へ戻るための燃料を考え、彼らは帰還する途中の新橋から銀座、京橋、更に日比谷、有楽町といった東京の中心部に、五十数発もの“大型爆弾”を投下した。実は前年には既に東京空襲は始まっていたのだが、その標的は軍需工場が主であり、「銀座」のような首都中枢が爆撃されたのは、この時が初めてだった。この後3月9日、10日、5月25日と「銀座」は立て続けに爆撃され、ほぼ全域が灰燼に帰した。そして1945年8月15日、ついに終戦の日を迎え、9月8日には早速、連合国占領軍のジープや輸送車、戦車が隊列を組んで「銀座」を行進し人々を驚かせたと伝わる。しかしもっと驚くのは、この時既に「銀座」の商人たちが「銀座復興計画」を作り始めていたことである!(つづく)

文 国影 譲

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