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名人「三遊亭圓朝」の世界へ!

  これだけ世の中に“エンターテインメント”と呼ばれる“楽しい事”があふれかえってくると、“落語”という“話芸”の生き残る道は、前途多難な気がする。だが、テレビ番組「笑点」の視聴率が、毎週ランキング上位の常連であることを見れば、時代や年齢に関係なく“身近な楽しみ”に対する人々の欲求はいつでも確実にあるという事なのだろう。たとえば、江戸時代末期から明治時代にかけての“動乱期”に、生活環境の激変により人々から笑顔が消え、みんなが“身近な楽しみ”を渇望するような状況になってしまった時、忽然と“落語”の世界に現れたのが、今でも不世出の名人と言われている「三遊亭圓朝」だったのである。

  「三遊亭圓朝」本名「出淵治郎吉(いずぶちじろきち)」は1839年5月13日に江戸・湯島で生まれた。父は二代目「三遊亭圓生」門下の「橘屋圓太郎」だ。 その縁で父と同じ二代目「圓生」の弟子となり、7歳の時「小圓太」と名乗って 寄席に出たという。しかし一時は母や義兄の忠告で落語から離れ、商家で働いたり、浮世絵師「歌川国芳」に絵を学んだりしたらしい。のちにやはり噺家(はなしか)への思いが断ち難く「圓生」門下に復帰し、17歳の時「三遊亭圓朝」と改名して真打となった。当初は、派手な衣装や道具を使って歌舞伎の雰囲気を伝える“芝居噺(しばいばなし)”を得意としたが、21歳の時いよいよ大きな寄席のトリを取る(最終演者となる)ことになり、師匠である二代目「圓生」にスケ(援助出演)を依頼したところ、何と師匠から、毎日自分が演じるはずの“噺”を先に演じられてしまうという嫌がらせを受けた。人々はこれを「圓朝」があまりにも噺が上手かった為に師匠である「圓生」が嫉妬したのだと噂した。しかし、 「圓朝」はこれを、師匠の「俺の知らない噺をやってみろ!」という叱咤激励であると感じ、以後、一念発起して新作落語の創作に励んだ。ここに“人情噺”や“怪談噺”では右に出る者無しという名人「三遊亭圓朝」が誕生したのだった。

  「圓朝」が他の噺家と最も異なる点は、“落語”という口述の芸に留まらず、数多くの“速記本(落語をそのまま活字化したもの)”を出版したことにある。 今でも残る「圓朝」の名作『怪談牡丹灯籠』、『真景累ケ淵(しんけいかさねがふち)』、『塩原多助一代記』、『文七元結(ぶんしちもっとい)』、『英国女王イリザべス伝』、『死神』などの作品は、日本文学界にも大きな影響を与え「言文一致運動」の礎となって、「坪内逍遥」や「二葉亭四迷」らに激賞された。この事を以て、 「圓朝」こそが今私達が話している“現代日本語”を作ったのだとも言われる。

   「圓朝」の逸話を一つ。全盛期の「圓朝」は、4〜5百席もあるような巨大な寄席を“満員札止め”にしたが、後に“人情噺”や“怪談噺”は1束(100人)以上の客の前では真意が通じないと感じ、これを演じないと心に決めたらしい。 そのため客が100人を超えると弟子が“ダイバネ(代理出演の事)”に出るのだが客としては「圓朝」を聞きに来ている訳で、一騒動起きる。ただ「圓朝」が“丸札(無料招待券)”を出すものだから、しぶしぶ帰って行く。これを何回か繰り返し、客足が減って、客数が1束以下になるとまた口座に上がったのだという。

文 国影 譲

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