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フレンチの“巨匠”に捧ぐ!

  歌舞伎ファンにとって“五月”と言えば、まずは“銀座歌舞伎座”で行われる『團菊祭(だんきくさい)』五月大歌舞伎を思い浮かべる方が多いだろう。この『團菊祭』、時折“だんぎくさい”と濁って発音される方もおられるようだが、大きな誤りである。何故なら、もともと九代目「市川團十郎」丈と五代目「尾上菊五郎(おのえきくごろう)」丈という、明治歌舞伎を代表する“名優”二人の功績を讃える為に、昭和11年から紆余曲折を経て今日まで続く“恒例の祭典”だからであり、決して“おのえぎくごろう”などではないと申し上げておこう。

  徳川幕藩体制のもと、江戸の“娯楽の華”だった歌舞伎だが、明治維新以後の急速な国家近代化路線の中で少しづつ近代化から取り残され、やがて大きな危機を迎えることになってしまった。明治初期に於いては、西洋から大量の文化文明を無差別・無批判に流入させた我が国は、演劇の世界でも“西洋演劇”のような写実性、所謂リアリズムを基調とした表現を最上の物とする風潮が顕著になった。

  つまり、江戸歌舞伎の持つ“荒唐無稽さ”や“誇張”、“猥雑な滑稽さ”が一段低いものとされてしまったのである。今でこそ、実はこの“日本の歌舞伎”の技法や舞台技術が、海外に大きな影響を与えていたという事が確認されているのだが、 当時は全て“西洋偏重”の気風が日本を席捲していたため、明治新政府の人々も“歌舞伎”本来の素晴らしさを認める余裕が無くなっていたのだろう。1872年には“歌舞伎”に対して、“身分の高い人”や“外国人”が見るのに相応しい物を演じる事と、“狂言綺語(きょうげんきご、作り話のこと。)”を廃止する事を要求するようになる。江戸時代には、現実の出来事をそのまま演じることが禁じられていた“歌舞伎”にとっては、全く180度価値観が変わってしまった訳で、役者はもちろんのこと舞台現場の混乱は想像を絶するものだった。この正に“歌舞伎”存続の危機に敢然と立ち向かったのが“九代目團十郎”と“五代目菊五郎”だったのである。特に“九代目團十郎”は、日本の演劇が、欧米先進国のそれに比肩しうることを顕示するために設立された「演劇改良会」に積極的に参加し、“活歴物(かつれきもの)”と呼ばれる“史実尊重”の時代狂言を作り上げた。この「演劇改良会」を中心に、“歌舞伎”のステータスを引き上げる為に計画されたのが、明治天皇にご臨席頂く“天覧歌舞伎”の実施であった。明治20年(1887年)4月26日、麻布鳥居坂にあった外務大臣「井上馨」邸に於いて、“九代目市川團十郎”、“五代目尾上菊五郎”、“初代市川左團次”等の出演による“天覧歌舞伎”が催され、“歌舞伎”こそが日本を代表する演劇であるとの認識が定着する礎となった。 しかし、残念ながら事はこれで大団円とはならなかったのである。

  実はここからが本コラムの本筋だ。明治時代を牽引する庶民達は、“九代目團十郎”が作り上げた“活歴物”を支持しなかった。“歌舞伎”の人気は目に見えて衰えた。“歌舞伎”人気を支えたのは“身分の高い人”でも“外国人”でもなく、“名も無き一般庶民”だったのである。やがてそれに気づいた“團十郎”や、“菊五郎”も“庶民”の下へと回帰し、新たな潮流が生まれることとなった。

文 国影 譲

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