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「昔語り」が価値有る時代に!

  国語辞典によれば「昔語り」とは、昔、自分が経験したことや身の回りに起こった出来事を後生の人々に話聞かせることだとある。「むか〜し、昔の話だけどさ。」と始めるか、「俺が若かった頃にはなぁ!」と始めるかは別にしてさらりとさりげなく若い人たちに「昔語り」を聞かせるのはなかなか難しいことのようだ。「昔は良かったぜ!」という様な言い方をすれば、たぶん“自慢の香り”がして単なる“懐古趣味”と捉えられてしまうだろうし、かと言って「昔は酷くてさ!」などと言えば、愚痴半分の“自虐ネタ”に聞こえてしまうだろう。“客観的”で“面白く”て、もう少し聞きたいと、若い人たちに思わせるような「昔語り」をする為には、きちんとしたプロット(話の筋書き)を組み立てる必要もありそうだ。

  ただ、そんな危惧は充分承知の上で、それでも世代間コミュニケーションの手段としての「昔語り」が正に今の時代には必要であり、価値有るものに成って来ていると思う。もし、昔を語る努力が足りないと、世代を超えたコンセンサス(同じ方向を向いた合意やお互いを理解し合うこと)が難しくなるし、“伝統”や“文化”といった“目に見えないもの”を、次世代の人たちに確実に手渡してゆくことも上手く行かないだろう。歴史的に見ると、例えば江戸時代以降“商家”では、「昔語り」が「家訓」というものに昇華して世々代々言い伝えられたし、また“職人”の世界では、親から子へ「一子相伝」という形で伝承された。更に“武道家”、“芸事”の世界では、「昔語り」が「免許皆伝」とか「家の芸」などとして、後世にきちんと受け継がれてきたのである。

  しかし、そんな日本の良き風習である「昔語り」は、第二次世界大戦の終結を境として日本の一般家庭では一時的に鳴りを潜めてしまったと言われる。おそらく戦争に参加した多くの人々が敗戦の責任を自らの事のように感じ“敗者の沈黙”を守ったからだろう。でもまるで“戦前・戦中の日本”を全て忘れ去るように、大人たちが「昔語り」を止めてしまった事によって、“戦争を知らない子供たち”には大きな“歴史の空白”が生まれてしまったのではないだろうか。自分も学生の頃、なぜ“歴史の勉強”というとクロマニヨン人やネアンデルタール人から始まって、明治維新あたりで授業が終わってしまうのか不思議だった。一番知りたい“近・現代史”を詳しく語ってくれる先生は皆無だったし、質問しても「まあ、試験には出ないから!」と言われるのが“関の山”。せいぜい「後は教科書に書いてあるとおりだから、よく読んどけ。」ぐらいの対応でがっかりさせられた。「おいおい!冗談じゃない!試験に出る出ないで、“歴史”を端折られてたまるか!」と言ってみても、語れる先生がいないことには如何ともし難い。こうして「昔語り」は“機能不全”に陥ってしまったのだった。

  翻って、最近、特にバブル崩壊以降の20年余りの間に、子供たちに胸を張って「昔語り」する大人がどんどん減っているらしい。確かにインターネットやスマートホンの普及で、家族一人一人の時間の過ごし方も変化し、一家団欒という絶好の「昔語り」の機会は失われつつあるのかもしれない。しかし忘れないで欲しい。「昔語り」こそ“大人の義務!”なのである。

文 国影 譲

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