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現存する日本最古の和歌集である「万葉集」には、4千5百首を超える“歌”(天皇や高名な歌人による“もの” もあれば、辺境の地で防人(さきもり)となった名も無き人々の“もの”もある!)、正に“心の叫び”とも言える “和歌”が並んでいる。「万葉集」にも、それ以降21編も続く「勅撰和歌集」にも付いている「集」という字こそ、 これらが今でいう“コレクション”であることを表しており、特にこれだけ数多くの形の無い“もの”を蒐集した“コレクション”は、世界的に見てもまず比類が無いと言って良いだろう。
「万葉集」は、蒐集された“和歌”の分析から、おそらく7世紀後半から8世紀後半までの長い時間をかけて、多くの人々の手により編纂されたものという説が有力だ。そして、最終的には「大伴家持(おおとものやかもち) 」によって二十巻にまとめ上げられたのだが、「万葉集」の成立は、この類稀なる“歌人”であり、撰者(コレクター)である「大伴家持」の“コレクター魂”に負うところが大である。「古今和歌集」以降の「勅撰和歌集」が天皇や上皇によって編纂されたのと比べると、「万葉集」は「大伴家持」の“私撰集”の色合いが強い。現に、その中には彼自身の“和歌”が4百数十首も入っているのだから。しかし、“歌人”としての才能だけでなく、父「大伴旅人(おおとものたびと)」と共に九州大宰府で暮らした経験から、“名も無き防人たち”の“和歌”を撰び、その“コレクション”に加えるなど、時代背景や文化、生活環境、そしてそこに暮らす人々の心情にまで配慮した、「家持 」の“繊細な感受性”が「万葉集」成立の“鍵”であったような気がする。
更に「万葉集」の成立にはいくつかの“奇跡!”が介 在しているようである。まず一つ目は、日本に「万葉仮 名」という“新たな漢字の使い方”が確立したことだ。 仏教伝来などを契機として、大変な勢いで“中国文化” が日本に流れ込んできたわけだが、その中には“漢字” という重要な情報伝達手段があった。中国では“漢字” は一文字ずつ“意味”を持った「表意文字」であるのに 対し、日本ではこの“漢字の持つ意味”は無視して“音” だけでこれを使う「表音文字」としての「万葉仮名」とい う使い方が生まれ、やがてこれが「片仮名」や「平仮名 」へと進化発展していくのである。
二つ目の“奇跡!”は、天皇や貴族層だけでなく、広 く日本中に“和歌”という表現方法が“基礎的教養”とし て伝搬していたということだろう。“漢字“と共に日本に伝わった“漢詩”は、「韻を踏む」とか「限られた文字数で表現する」など、厳しい約束事の中に豊かな文学的表現を盛り込むという手法だが、日本人は、この“漢詩”を土台として、“和歌”という日本独自の文学的表現方法を編み出したのである。「敷島」とか「敷島の道」とも言われる“和歌”は、三十一文字(みそひともじ)の中に、人々の心情を余すところなく盛り込むのに最適なツールであったに違いない。
文 国影 譲
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